われわれが音楽を楽しむ時、なにも遠慮は要らないはずなのですが、われわれは無意識に色々と気を使ってしまいます。
例を挙げます。

アラン・ホールズワースの76年作「ヴェルベット・ダークネス」は彼の許諾を得ずにレコード会社が発売したもので、彼はディスコグラフィにこのアルバムが加えられることが不本意だったかもしれません。

ビートルズの「レット・イット・ビー」はフィル・スペクターによるプロデュースで発売されました。よく知られるように「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」をポールは気に入っておらず、後に「レット・イット・ビー…ネイキッド」では別アレンジです。

こういった音楽を聴く時に、われわれは戸惑ってしまいます。「どれが、作者の聴いてほしいものなのか。作者はこれを聴いてほしいと思っているのか」と考えます。

なぜか。

われわれは、作品に向き合うと同時に、作者に向き合っているからです。作品は人を拒否したりしませんが、作者は時に作品を聴くことを嫌がります。「それは本意ではない」と。

作品に真摯に向き合っていれば、作者がなにを言おうが作品を聴くだけなので問題はありません。

逆に、作者の意向に寄り添うだけであれば問題はないと言えましょう。作者が聴かないでといった作品は聴かなければいいだけです。

問題はこの間で起こります。「僕が好きな作品を作者は気に入っていない。いいのだろうか」などと。

筆者は口が悪いので、作者を気遣って作品に向き合わない態度を「作品に対して真摯でない」などと言いますが、物言わない作品なんかより、物を言うし感情もある作者に寄り添うほうが、いいに決まっています。悩むぐらいなら作者の望む消費者であらんとするほうがいい。

ここまでの話は単純なことです。以下はちょっとした予感。

もしかして、作者に寄り添う人は作品を作者に寄り添うためのツールと思ってはいないでしょうか。筆者は作品とも向き合える=コミニュケーションできると思っていますが、無生物とコミニュケーションを取れるなどと思っていないのではないでしょうか。

であれば、ここに書いたことの基準というか、前提が崩れてくるのであまり迂闊なことは言えませんね。言いますけど。

初出:note(2017.05)