「男は待っている」
「今、一番線に電車が来たところだ」

このように文章が二つ並んでいれば、その二つを関連付ける。上の二つの文章を見た時「男は電車を待っている」と意味付けるのはいたって当たり前のことである。

まさか、全く意味なく別々の文章が並んでいるなどとは思いもしない。
つまり恐らくだが、説明するべき状況がまずあって、文章でそれを説明していると考えているのである。

しかしである、例えば先の「男は待っている」の文章のあとに「モヤイ像の前に女がいる」と文章が続いていればどうであろう。「男は女を待っている」と意味付けるのではないか。

こうしてみた時「男は待っている」の文章そのものには「電車/女を待っている」という意味が含まれていないとこがわかる。更に言えば「今、一番線に電車が来たところだ」の文章にも「電車を待っている」という意味は含まれていないし、「モヤイ像の前に女がいる」の文章にも「女を待っている」という意味は含まれていない。

にもかかわらず、二つの文章からなんらかの意味を見いだすのはいたって当たり前である。そればかりか「二つの文章からその文章が直接意味していない意味を見いだすこと」は普通、意識されない。

福永信の「コップとコッペパンとペン」は、そのような「文章を読むときの(意識していない)前提」を浮かび上がらせる本だと思った。

初出:note(2015.11)