価格は価値ではありませんが、容易に価値にすり替わってしまいます。これは由々しきことです。

ものの価値を決めるのは誰なのでしょうか。それは自分です。ひとりひとりそれぞれの自分しかいない。

では、ものの価格を決めるのは誰なのでしょう。売り手ですね。売り手がこの価格で売りたいというものが価格です。

買い手は、売り手の付けた価格よりも自らの決めた価値が上回っていた時にものを買うわけです。

であれば、市場価格は安ければ安いほどいいわけです。だって低コストで手に入れられるのだから。

ところがそんな単純な話ではない。安いものは価値がないと思ってしまいがちです。気持ちの問題なのですが。

モナリザの価値は価格にしていくらなのでしょうか。これはひとりひとりそれぞれ違うわけですが、価格は(おそらく)その時のオークションで決まります。価格は一つです。ひとつの価格を価値が上回った人が買うことになります。

単純に考えれば、価格は売買コストなのですから、購入したのちに変動しようが関係ないはずです。より高い価格で売るつもりでないのなら。

しかしそう単純ではない。市場価格が下がると、あたかも価値が下がってしまうかのように思ってしまいがちです。

この時、われわれはモナリザそのものを消費しているだけではありません。モナリザの価格をも消費しています。

価格の変動が価値に結びつくと考えているのであれば、それはモナリザ自体というよりも、価格を消費していると考えられます。人々の羨望を消費しているのかもしれません。

そのこと自体はいいも悪いもないのですが、無自覚であるよりは自覚的であることを筆者は望みます。また、モナリザには失礼ですよね。モナリザ自体を消費しているのではなく、モナリザの価格がいくらであるかという情報を消費しているわけですから。

初出:(2017.06)