僕は松浦果南が大嫌いだ。その理由は私怨なので、考察めいたものを書くのはあんまりよくない。でも書く。
果南は鞠莉のことを思っている。誰よりも。ダイヤの口からそう語られる。果南は、スクールアイドルを辞めて周囲の期待(両親や、教師の)に応えたほうが鞠莉のためだと思っている。そのために身を引くほど果南は鞠莉のことを思っている。鞠莉が自分たちに合わせてスクールアイドルをやっているのではないかと思っているフシもある。
果南は、鞠莉の将来と立場を考えている。
鞠莉は?
鞠莉は、周囲の期待に応えずスクールアイドルをやりたいと思っている。職員室で教師に留学を断る旨を伝えている。果南やダイヤと一緒の時間を楽しむため……かはわからない。鞠莉は自分のやりたいことをやっている。果南やダイヤとスクールアイドルをやりたい。それが鞠莉のやりたいこと。それが鞠莉の気持ち。
果南は鞠莉の気持ちに応えなかった。
二人はすれ違っている。 お互いを大切に思っているのは変わらないのに。二人の違いは、周囲の期待に応えるか否かだ。
果南はおそらく周囲の期待に応えなくちゃと思うタイプなのではないか、と思った。それが伺えるのが、怪我をした父親のために休学している描写である。ここで果南は誰の期待に応えているのか。父親だろうか。かもしれない。ダイビングショップに来るお客さんだろうか。かもしれない。
ここからは完全に僕の想像だけど、果南は休学を父親が止めたとしても、その反対を押し切ってダイビングショップを続けたのではないか。果南の中には、彼女なりの“生き方”、彼女なりの“在り方”があるんだと思う。それは立場、あるいは場所を大切にする生き方だと思う。
ホテルオハラの経営者の娘という立場、ダイビングショップという場所、それに伴う周囲からの期待を無碍にしてはいけないと思っているのではないか。
鞠莉の行動原理はそうではない。彼女は周囲の期待に応えることよりも果南やダイヤとの学校生活を楽しみたかったはずである。その気持ちに、果南は応えなかった。それが僕にはとても悲しい。
ところで、鞠莉は周囲の期待に応えたほうがいいのだろうか。それともその逆だろうか。
どちらの生き方がいいのかは、価値の選択なので、個々人によりけりだ。一概にどちらがいいとはいえない。
果南の生き方はとてもオトナだし、カッコイイと思うし、立派だ。
鞠莉の生き方はもしかしたら、立場にそぐわないかもしれないし、一時のやりたいことのために将来を棒に振る生き方かもしれない(でも、少なくとも本人はそのことを後年後悔したりはしないと思う)。
でも僕は、目の前の人の気持ちに寄り添わなかった果南のことが嫌いだし、今やりたいことを優先する鞠莉のことが好きだ。
ところで。東京で歌わなかった果南の、鞠莉を思う“そうでもしないと鞠莉が足を悪くさせていたかもしれない”という気遣いはまったく妥当だと思う。果南のオトナなところがいい方向に作用していると思う。一時のやりたいことのために足の故障を悪化させるのは、よくないものね。2年後千歌がAqoursを結成しなかったらそのことは永遠に知らされることがなかったかもしれないことについては「だったら素直にそう言ってよ!」としか思わないけど。
ところでそのに。僕は本文章で果南と鞠莉の不和を「周囲からの期待」「立場・場所」というキーワードから読み解いた(つもりだ)。同じキーワードでダイヤと千歌を読み解くと、『ラブライブ!サンシャイン!!』の物語上の構造が読み解けるかもしれない。ダイヤも家や立場がある身であると言えそうだし、3年生の不和を打破した千歌は旅館の娘ではあるものの、3姉妹の末っ子であり、周囲からの期待によってスクールアイドルを断念させられそうなことはないと考えられる。このあたりは、僕の手に余るので書けないのですが、指摘だけ。

初出:note(2017.300)