僕はオカルトを信じていて、あったらいいなという話や夢や希望じゃない。

論理的に考えてないとは言い切れないので信じているのだ。屁理屈かもしれないと言えばそうだ。

墓地で幽霊を見た話は聞くが、それがなにであったかはよくわかっていないのではないか。幽霊なんて非科学的だ、というがそれは本当だろうか。たしかに科学的に観測されていれば、科学的に記述されているはずで、記述されていないのだから科学的には観測されていないのだろうというのは一見そのように思える。

科学の最先端をフォローしていないので迂闊な事を言うものではないが、別の方向から言う。科学的に観測されていないから「ない」と言い切るのは軽率だ。現代の科学が完璧じゃないから、というのもあるが(科学はいつだって妥当な仮説に過ぎず、完璧であることはなかろう)、個人的にはそういった感覚ではなく、個人の体験を否定するのはよくないんじゃないか、という動機に基づいている。

見た人がいるんだから(それも少なからずの人だ)、いるんだろう。というアプローチだ。

真実から物事を考える必要がある。

幽霊はいる。これは真実ではないと思う。幽霊を見た人がいる。これは真実だろう。見た人が嘘をついていないなら。幽霊を見たと言っている。これは真実である。この違いが重要だと思う。

見たと言っている人がいることは、見たものがあることをただちに意味しない。幻覚かもしれない。しかし、見たと言っている人がいること自体は真実である。仮に嘘をついていたとしても見たと言った発言があること自体は真実である。

真実を記述し、積み重ねていくことで何か見えてくると信じている。

話が逸れたので元に戻す。例えば、キリストの復活は常識的に考えればありえないと思うが、ないとは言い切れない。聖書に書いてあるのだからあったと信じる人を僕は「さすがにそれは……」と訝しんでいるのだが、訝しんでいるまさにそれと同じ理屈で僕は幽霊や超常現象を信じている。

仮にファミレスで一人怒っている人がいると周りが嫌な気持ちになるが、人間の気持ち次第で周りが影響されるのは変じゃないかと思いはしないか。オカルト現象はこれと同じような理屈で「ある」んだと半分屁理屈で言っていたわけ。

怒りが影響するのは不快なものを視覚や聴覚が感知して体内で不快だと判断するのかもしれないし、なにやら微量の化学物質が怒っている人から発されていて、それを周りの人が受容して不快になるのかもしれない。オカルトも同じ理屈で「ある」。

このようなことを屁理屈、口から出まかせで言ったつもりなんだけど、最近僕がこれまで「そりゃないだろ〜」と思っていたことが同じ理屈で説明できるかもしれず、戸惑っている。それは悪い言葉を掛けた野菜といい言葉をかけた野菜の変化の話で、悪い言葉を掛けた野菜が腐り、いい言葉を掛けた野菜が腐らないというもの。困ったことに僕の言っていた屁理屈と同じ理屈で説明がつくんじゃないかと思った。水に感謝をすると結晶がキレイみたいな話もいかがわしいと思っていたが、これも同じ理屈で説明がつくな。やはり感情が何かを発しているのだろうか。ホルモンとか、波(は)とか。

尤も、これらの話に僕はのることができない。それは人間にとってよくない(とされる)感情が水や野菜に人間にとってよくない影響を与えるというのが今ひとつ納得いかないというか、わかりやすすぎて退いてしまう。人間の感情と世界は別に進行してると信じてるからだ。しかし、これも仮説にすぎないと言えば、そう。