作品そのものを楽しむのか。バックグラウンドを含めて楽しむのか、どちらがよい楽しみ方なのでしょうか。

筆者はオタクで評論好きというのもありますので、バックグラウンドを含めて楽しむことに馴染んでいます。しかしそれがよいことだとは、必ずしも思いません。

ナンシー関がかつてオリンピックについて述べたことがあります。手許に資料がないのでうろ覚えなのですが、選手の生い立ちなどにフォーカスを当てて競技自体の放送とどちらが主なのかわからない。確かそういった内容だったと記憶しています。

これは、バックグラウンドを含めた鑑賞の仕方の一例ですが、これがさらに進んでバックグラウンドの人間ドラマだけを楽しむこともあります。ノーベル賞を受賞した学者についての報道が人間ドラマに偏っていることはこの例です。バックグラウンドを含めて楽しむのではなく、バックグラウンドのみを楽しんでいます。ノーベル賞の業績について報道されても理解できない(だろうと報道する側が予想している)ことも要因にあります。

オリンピックの例では流石に競技自体の放送がないことはまだないと思います(今後そうなったとしても筆者にはまったく不思議ではありません)。競技自体を楽しむことができない人でも人間ドラマなら楽しむことができるからです。

さて、冒頭の問いにもどります。バックグラウンド含めた楽しみ方は果たしてよいことなのでしょうか。

ノーベル賞の例のように作品そのものと作品を巡るバックグラウンド(それは作者が誰である、いつ制作された、などあらゆることです)は別々に楽しむことがあります。もちろん、一緒に楽しむこともあります。

仮に何もその作品について知らない状況でその作品を楽しむことができれば、それはすごく尊いのではないか、と今現在筆者は思っています。筆者がそういう楽しみ方ができないから羨ましいのもあります。

だから、例えば作品自体が面白くないにも関わらず、バックグラウンドを知れば楽しい、などというもの言いはよくないなと思います。作品の魅力のなさをバックグラウンドで糊塗するのはいただけない。「書かれた背景を知れば文学が楽しめるよ」。それは作品ではなくバックグラウンドをこそ楽しんでいるのではないでしょうか。作品の評価を歪めているように思います。

かつて子供向けヒーローショーで歌手がショーの終わりに特撮ソングを歌っていたのにしらける子供たちの姿を見たことがあります。歌っている歌手はやるせないのだろうと思いますが、子供の気持ちがわかります。筆者の経験では(あくまで筆者の経験ですが)、ヒーローと特撮ソング好きなのであってアニソン歌手など全く好きでないどころか、その人が歌っていることさえ認識できていなかったのです(これは筆者がクソ馬鹿であった可能性がありますね)。

ですが、そのヒーローと特撮ソングは誰より愛していたと思います。歌手を好きか、知っているかとその歌が好きかは全く別のことだと思います。

初出:note(2017.05)