中学生の頃だったと思うが、人生に絶望したことがある。コミニュケーションが結局の所伝わらないと知ったときだ。

いつそんなことを思ったのかはもはや憶えていないが、確かインターネットの向こうに人がいるのか、たしかそんなことがキッカケだったように思う。メールが自動返信メールだったからかもしれない。人と思ってやりとりしていたら人ではなくロボットだとは。悲しいことだ。

しかしよく考えてみれば、相手がロボットじゃなくて人だったとしても、伝わっているかは怪しいものである。友人と別の友人のことで盛り上がっていたと思いきや「アレ? 別の人のことを思ってたよ」なんてのは、ありうる話だ。伝わっていたと思ったことが伝わっていなかったのだから悲しいではないか。いや、伝わっていないことがわかったのだから、まだマシなのである。もし伝わっていないことがわからないままだったら。そう考えるととても怖くなる。

結局の所相手がなにを考えているかはわからない。言葉を尽くしても、言葉がなにを意味しているのかは、実のところわからない。これに気づいた僕は、なんとなく不安になって、なんとなく絶望してしまった。「もうなんだっていいや。ハハハ」、そんな感じ。

だからといってコミニュケーションしないわけにはいかないし、伝えることを諦めたわけではない。伝わらないからこそ、伝えるのだ! なぜかそう思って、以前と同じように熱心にコミニュケーションしようとしたこともある。

しばらく、たぶん3年ほど考えていたが、ある時ハッと思ったことがある。「完全に伝わらないとはいえ、我々が普段「伝わった」「分かり会えた」と言い合えるぐらいには伝わり会えるし、分かり会える」と。それでいいではないか、なにも完璧に分かりあえずとも、普通に、それなりに分かりあえたら。これに気づいてからはだいぶスッとした。

転機がいつ訪れたのか憶えていない。それからまたしばらく経ってから。おそらくずっと考えていたからだろう。考えに考えて、忘れた頃に天啓のようにアイディアがひらめくように、重要なことに気がついた。

そもそも「相手の考えていることがわからない=わかりあえない」というのは間違っている。正確に言うならば、「わかりあえているか、わかりあえていないか、そのどちらも確かめられない」のである。確かめられないものをないと思ってしまうのは、あまりにも早計である。

これに気づいて、もはや悩むことなどないのだと晴れやかな気分になった。人はわかりあえるのだと。尤も、分かりあえていてもそれを確かめることはできないのだが、分かりあえないわけではない。なんと素晴らしいことか。

僕はますます言葉を饒舌に使うようになり、ますます面倒くさい喋り方になった。この文章からも伺えると思う。困ったね。

だけど、なんで誰かと分かり合いたいのだろう。